備忘録。
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ブリヂストン美術館の「ザオ・ウーキー展」を見に行きました。
初期はパウル・クレーの影響を受けたという疑似的シュルレアリスムとフォーヴィスムの結合とでも言うべき絵。(「擬似的」シュルレアリスムというのは、複数の形象が絵画空間にモンタージュ的に配置されているという限りでのシュルレアリスムという意味で、良し悪しを問題にしているのではない。) 無数の判読不可能な文字のような黒い線が白い画面の中に蝟集している「仮象の横断(Passage of Appearences)」(1956)などは悪くない。しかし総じて、具象を排した画面の場合ですら、あくまで形象としての抽象的な“物体”を描いていることによって、何かの挿し絵であるかのように感じられる絵となっている。背景としての絵画空間があり、その“中”に具象であれ抽象であれ対象物がある、という図式がそこでは維持されている。 60年代以降は、画風としてはアンフォルメルになり、タイトルが日付けのみになり(いくつかの例外はある)、物体としての形象が消えていくが、それが消えたあとの絵画空間はいまだ空間として残っている。 それも、絵画によって空間的なイリュージョンが発生しているのではなく、絵画の中で空間のイミテーションが行われていると言える。水平線や黒い穴や液体の流動等々を想起させる構成によって。 (出展作のなかでは唯一「10.09.76——トリプティク」は、そのサイズの小ささによって救われている。) 仮にそのなかで「アンリ・マティスに捧ぐ(02.02.86)」を特筆しうるとすれば、それは、その作品が“抽象化”の対象として選んだマティスの「コリウールのフランス窓」がそうであるのと同様、抽象絵画としてではなく、(絵の絵としての)具象絵画としてのみだと思う。 ところでこの展覧会のカタログには、アンリ・ミショー、ルネ・シャール、イヴ・ボヌフォワらのテクストが(一部は抄訳で)掲載されている(底本は Yves Bonnefoy et Gérard de Cortanze, Zao Wou-Ki, Edition de la Différence, 1998)。 ボヌフォワは、ザオの絵画を、絵画というよりもむしろ、何も意味しない(“無”を意味する)文字、記号の痕跡として捉えている。
by rinopo
| 2005-01-06 23:00
| 展覧会
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